平和の鐘をつくつどい


今日8月6日は67年前に広島に原爆が落とされた日。
毎年8月6日午前8時15分、乙訓では、いくつものお寺から鐘の音が聞こえてきます。
鐘の音の主は、今年で24回目となる「乙訓の非核・平和の鐘をつく集い」です。
長岡京市内では、光明寺さん、勝竜寺さん、金蓮寺さんが、この集いを開くお寺として協力してくださっています。
私は今年も金蓮寺さんで子どもと一緒に鐘をつかせてもらい、非核と平和を祈り誓ってきました。
「誓い」全文↓

戦前の日本が起こした戦争とは何だったのか、そこから目をそむけず、問い続け、伝えていかないといけないことです。
先月18日に行われた、日本共産党創立90周年の不破哲三の講演から、以下引用します。文中最後の「先輩戦士」とは、専制軍国主義に反対し、民主主義・平和主義を貫いたために、逮捕、投獄、拷問、死刑となった戦前の日本共産党員のことをさしています。

あの戦争は、アジア諸国民に大変な惨害をもたらした侵略戦争でした。同時にそれが日本国民にとってなんだったのか。私は、国民全体が体験した三つの経験を思い出していただきたいと思うのです。

 第一。この戦争に動員された軍人・兵隊の運命です。日本軍はアジア太平洋の戦場で、二百数十万の戦没者を出しました。しかし、その大部分は、戦って死んだのではありません。半分以上の百数十万人が餓死者、飢えて死んだのです。それは食糧補給の手だても講じないまま、何万、何十万の軍隊を平気で前線に送り出した、まさにその結果でありました。自国の軍隊の人命をこれほどまでに軽視し、無残に扱った戦争は、世界史にもほかに前例のないものであります。

 第二。フィリピンの戦争で完全な敗北をとげて最後に迎えた年、1945年の出来事です。もう戦争に活路はない、これは誰の目にも明らかでした。しかし、そのとき、天皇制国家をそのまま残す保証がないといって、平和交渉が拒否されました。あのときに和平交渉に踏み切っていたら、本土大空襲も、3月〜6月の沖縄戦も、8月の広島、長崎も、そしてソ連の参戦による満州樺太の悲劇もなかったはずです。ところが戦局打開の何の見通しも計画もないのに、国体護持を全国民の命よりも優先させ、「本土決戦」「一億玉砕」、これを叫び続けた天皇制国家の指導者たちこそが、1945年の国民的な大惨劇を引き起こしたのであります。

 第三。日本が降伏した時、世界が日本に要求したのは何だったのでしょうか。日本が受諾した連合国の「ポツダム宣言」に記されていたのは、日本国家の抹殺でも滅亡でもありませんでした。戦争国家の転換、つまり専制主義と軍国主義の日本を民主主義と平和主義の日本に変える、これが目標でした。その大局の方向は、わが党がめざしてきた民主主義の革命と一致しており、党のたたかいが世界の平和と社会進歩の流れに沿っていたことを証明したものでした。

 私はこの三つの国民的な経験を頭におきながら、天皇制国家に立ち向かい、平和と民主主義のたたかいに倒れた無数の先輩戦士たちに心からの敬意をささげるものであります。